中埜又左エ門中埜又左エ門
1922-2002
七代

中埜又左エ門

- 第二の創業を成し遂げた改革者 -

大正11年(1922年)~平成14年(2002年)享年80歳

INTRODUCTION

30歳の若さで社長に就任し、
襲名の際には又左「エ」門を名乗る。
全面ビン詰め化、純正食品キャンペーン、
海外進出などに取り組み、老舗のイメージを刷新した。

CHAPTER 01 樽売りから全面ビン詰めへ

昭和27年(1952年)、日本が敗戦のダメージから立ち直ろうと、必死にもがいていた頃、六代又左衛門は会長になり、長男の政一(まさかず)が中埜酢店の社長に就任。政一が社長になってまっ先に手がけたのは、酢の全面ビン詰め化だった。
六代又左衛門は、まだまだ物資が不足していた当時にあっても、あくまでも品質にこだわり続け、戦前同様、最高級の醸造酢をつくることを強く求めたが、これが思わぬ事態を招いた。
当時の酢は、昔からの樽売りが主流だったが、市場では有力メーカーの空き樽に自社の合成酢(混成酢)を入れて売るという悪徳商法が横行したのだ。出荷用のミツカン印ミツカンマークの樽が空くと、そこに安くて粗悪な合成酢を入れ、あたかもミツカンの酢であるかのように販売する……。七代目の政一は、空き樽の回収が極端に遅くなったことから、この予期せぬトラブルに気づいた。こうしたごまかしに対処するためには、ビン詰め化が必要だったのだ。

ひと壺ひと壺、ひと樽ひと樽、丁寧に荒縄をかけて出荷の準備を
している様子
CHAPTER 02 ビンにこめたお客様への思い

お客様の信頼を裏切るようなことは絶対にあってはならない、そのためには、自らの手で詰めた酢をお届けするのが一番だ……。そう考えた七代目の政一は、商品の全面ビン詰め化を図った。粗悪品との混同を防ぐためだけでなく、その頃には日本酒や醤油もビン詰めへと変わりつつあり、時代そのものが「調味料はビン入り」という方向に傾いていたことも、理由のひとつだった。
とはいえ、全面的なビン詰め化には高額な機械の購入など、何よりも資金を確保しなければならなかった。戦後の農地解放などで、資産の大半を失っていた中埜酢店や中埜家にはそんな余裕はなく、概算で考えても「借り入れの返済に100年はかかる」というほど、大規模な設備投資が不可欠だった。多くの幹部が口を揃えて反対し「やっと終戦の混乱から立ち直りつつある今、そんな無謀なことをする余裕があるだろうか……」。七代目の政一も悩んだが、「元詰保証という、消費者志向の原点に立って決断しよう」と、社長自らが融資を受けるために複数の銀行を奔走したという。
昭和29年(1954年)、半田工場が全自動ビン詰めラインに刷新し、オートメーションによるビン詰めがスタート。続く30年には尼崎工場も全自動ビン詰め化がなされ、昭和32年(1956年)には卓上酢びんを開発する。しかし、政一(まさかず)はそれだけでは満足しなかった。徹底した生産の合理化を推し進めるとともに、東京工場、福岡工場、大阪工場、栃木工場を次々と新設していった。
かつてひと樽ひと樽ていねいに縄をかけて出荷されていたミツカン酢は、「ビン」という器にその高い品質と、お客様への思いを注ぐことになったのだ。

半田工場に設置されたビン詰第一号ライン
CHAPTER 03 「又左衛門」から「又左エ門」へ

昭和35年(1960年)七代目の襲名にあたり政一(まさかず)は又左衛門を又左エ門に改めると発表し、周囲を驚かせた。「“衛”には守るという意味があり後ろ向きであるが、“エ”は工夫の“工”にも通ずる」というのは七代目の弁だが、歴史的な名前をそのまま受け継ぐのではなく「新しいミツカンを作り上げていく」という、自身への戒めの念もこめられていたのかもしれない。

CHAPTER 04 醸造酢と合成酢との区別を!

出荷用の樽を悪用され、粗悪な合成酢をあたかもミツカン酢であるかのように販売されたことから、全面ビン詰め出荷に踏み切ったミツカン。高度成長期に入ると、ミツカン酢はどんどん売り上げを伸ばしていったが、合成酢の問題は、昭和40年代に入ってもなお、ミツカンを悩ませ続けていた。穀物などを原料とする醸造酢は、酢酸のほか、多くの種類の有機酸類やアミノ酸を含んでいる。 当時の安価な合成酢に含まれる有機酸類やアミノ酸は醸造酢に比べて少なく、人工甘味料など食品添加物を添加していた。ところが、当時の日本の法律では、こうした違いを商品に明記する必要がなく、醸造酢も合成酢もとくに区別がなされない状態で販売されていたのだ。100%醸造酢の高い品質にこだわるミツカンにとって、これはなんとしても打開しなければならない問題であった。

CHAPTER 05 100%醸造酢はミツカン酢だけ
~確かな品質と安全性を訴えた純正食品
キャンペーン~

そこで昭和43年(1968年)、ミツカンは大胆な策に打って出た。「100%醸造酢はミツカン酢だけ」、 「この子には、まじりけのないものを与えたい!」のキャッチフレーズで、新聞広告などを展開する純正食品キャンペーンを開始。ミツカン酢の確かな品質と、安心して口にしていただける安全性を強く訴えたこのキャンペーンは、世間の人々から大きな関心を寄せられる一方で、同業者の強い反発を受けることとなった。しかし、その頃高まりを見せていた消費者運動の後押しもあって、ミツカンの主張は多方面からの支持を受けるようになり、昭和45年(1970年)には「醸造酢」と「合成酢」の表示区分が官報により告示。そしてついに昭和54年(1979年)、JAS規格の制定により、「醸造酢」「合成酢」の表示が義務づけられることとなったのだ。世論を、そして規格をも動かしたミツカンの純正食品キャンペーン。その立役者は、ミツカンの企業姿勢を支持してくださった消費者の方々に他ならなかったといえるだろう。

社会的な反響を呼んだ純正食品
キャンペーンの新聞広告
CHAPTER 06 総合食品メーカーへ

食生活の変化をいち早く捉えて、味ぽんやドレッシング、中華調味料、おむすび山などの新製品を開発し、次々に世に送り出してヒットさせていった。七代目はミツカングループを今日の総合食品メーカーへと押し上げた。

左上:ドレッシング(昭和42年)
右上:「純正食品キャンペーン」の
   新聞広告
下:味ぽんのリーフレット(昭和45年)
CHAPTER 07 世界への進出

また、昭和46年(1971年)にはサンキストグロワース社との提携をスタート。昭和52年(1977年)には「ナカノUSA」を設立。七代目は本格的な海外進出に向け、その準備を着々と進めていった。同56年に米国の食酢有力企業アメリカンインダストリー社(AIC)を買収して本格的なアメリカ進出をはたした。その後、東部や中西部でも買収を進め、全米有数の食酢企業となった。

創業から200年余。ミツカンの歩んできた歴史の先には、“世界”というさらなる地平が広がっている。かつて江戸をめざした初代のフロンティア精神は、よりスケールアップして現在にも確実に受け継がれている。

AFC(当時はアメリカンインダストリー社(AIC))買収調印式
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