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四代 中埜又左衛門進取の気性に富んだアイデアマン安政元年(1854年)~明治28年(1895年)享年41歳

名字を「中野」から「中埜」に変え、現在のミツカンマークを考案。
鋭敏な時代感覚を発揮して、ビール事業をはじめとする新規事業に積極的に乗り出した。

名字を「中野」から「中埜」へ

新商標の披露会

慶応3年(1867年)、三代目が享年59歳で死去し、四代又左衛門を襲名した小吉(こきち)はまだ13歳の少年であった。翌年の明治元年(1868年)、創業以来の大得意先であった森田半兵衛が店じまいをするという知らせが飛び込んできた。江戸(東京)における唯一の取引店であっただけに、半田ではざわめき立った。しかし、森田の店を引き継いだ中井半三郎が、これまで以上にひいきにしてくれたため、戸惑いは杞憂に終わった。その後の事業は順調そのもので、経営に携わるようになった四代目は盛田家と共同して、清水や沼津にも販売店を出し、販路を着実に拡げていった。
さらに、明治10年以降、東京を初め各地で開催された「内国勧業博覧会」などの博覧会に出品し、全国的なPRに努めている。また、四代目は若い頃から「易学」に強い興味を示していたという。戸籍法が整えられる過程で“中野”の名字から、現在の“中埜”を名乗るようになったのも、四代目の易学の影響といわれている。

ミツカンマークの誕生

中埜家の家紋 中埜家の家紋から生まれたミツカン印

また、明治17年(1884年)の商標条例の施行にともない、丸勘マーク(丸勘)マークをミツカンマーク(三ツ環)マークに改めたのも、四代目であった。中埜家の家紋に、易学の理念「天下一円にあまねし」という意味を込めて、○を三の下に付けたマークは、現在にいたるまでミツカンの商標として使っている。

新マークの誕生にともない各地で「ミツカン商標披露」を行った。中でも東京では明治21年(1888年)、歌舞伎小屋新富座を借り切って、1500名の得意先を歌舞伎公演に招待するイベントも実施した。併せて、新聞広告やカレンダーなど、さまざまな媒体を活用して新商標を告知した。また、ミツカンとして華々しくスタートを切った翌年には、拡大する需要に応えるために南倉(現中間実験棟敷地内にあった工場)を開設している。

異業種への積極的参入

兜のマークをあしらったビン、グラス、ジョッキ

四代目は本業の一方で酪農や海運会社など異業種へも積極的に参入していった。そのひとつがビール事業であり、明治22年(1889年)には「丸三麦酒」と名付けたビールを初出荷。その販売を担って、3年後、名古屋に「丸三商店」を、同年に半田倉庫を設立し、物資の保管・輸送の一元化を図った。ビール事業が軌道に乗り始めた明治28年(1895年)、四代目は志半ばに、42歳という若さで短い生涯を終えた。

“新たな時代を見据えた事業家三代 中野又左衛門全国制覇の礎を築いた立役者五代 中埜又左衛門

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