変革と挑戦6 樽売りからビン詰めへの大転換
多額の借金をしてでも優良な酢をお客様に
品質の高さが呼んだ思わぬ事態

七代目である政一(後の七代又左エ門)が社長に就任したのは昭和27年(1952)、日本という国が敗戦のダメージから立ち直ろうと、必死にもがいていた頃のことです。彼がまず第一に取り組むべき緊急課題と考えたのは、酢の全面的なビン詰め化でした。

六代又左衛門は、まだまだ物資が不足していた当時にあっても、あくまでも品質にこだわり続け、戦前同様、最高級の醸造酢をつくることを強く求めました。ところが、これが思わぬ事態を招きます。ミツカン酢が品質に絶対の信頼を置かれているのを逆手にとり、その樽を悪用する者が現れたのです。出荷用のミツカン印の樽が空くと、そこに安くて粗悪な合成酢を入れ、あたかもミツカンの酢であるかのように販売する……。七代目の政一は、空き樽の回収が極端に遅くなったことから、この予期せぬトラブルに気づいたのでした。
ビンにこめたお客様への思い

お客様の信頼を裏切るようなことは絶対にあってはならない、そのためには、自らの手で詰めた酢をお届けするのが一番だ……。そう考えた七代目の政一は、商品の全面ビン詰め化を図ります。粗悪品との混同を防ぐためだけでなく、その頃には日本酒や醤油もビン詰めへと変わりつつあり、時代そのものが「調味料はビン入り」という方向に傾いていたことも、理由のひとつでした。しかし、それにはあまりにコストがかかります。概算で考えても「借り入れの返済に100年はかかる」というほど、大規模な設備投資が不可欠だったのです。多くの幹部が口を揃えて反対しました。「やっと終戦の混乱から立ち直りつつある今、そんな無謀なことをする余裕があるだろうか……」。七代目の政一も悩みます。
「元詰保証という、消費者志向の原点に立って決断しよう」
昭和29年(1954)、半田工場が全自動ビン詰めラインに刷新。続く30年には尼崎工場も全自動ビン詰め化がなされます。かつてひと樽ひと樽ていねいに縄をかけて出荷されていたミツカン酢は、「ビン」という器にその高い品質と、お客様への思いを注ぐことになったのでした。