酢屋の創業酢屋の創業、そして江戸へ
五街道や海上航路などの交通網が整備され、日本各地から様々な食材が運ばれていた、人口100万人の大都市江戸。
様々な食文化が発達し、高級な料理茶屋などが現れた。
庶民の間では、納豆や惣菜の行商の他に、手軽な外食としてそば・寿し・天婦羅などの屋台が繁盛した。
1804年(文化元年)初代又左衛門(またざえもん)は、友人の間瀬利兵衛(ませりへえ)と共に江戸視察に訪れ“寿し”と出会った。
江戸の握り寿しブーム

当時の江戸で人気を呼んでいた「早ずし」には、主に米を原料とする、高価な「米酢」が使われていた。
「米酢を粕酢にすれば、もっとおいしくて手軽な寿しがつくれるはずだ」
粕酢の可能性を見いだした初代又左衛門は、酒で培われた半田の海運力と販売ルートを生かして、江戸へ積極的に粕酢を売り込んだ。
半田の技を生かした水の道

半田の醸造家たちにとって、大量の水の確保は常に大きな課題であり、醸造家は、水源から私設の「水道」を引くことを考えた。そこで又左衛門は、文政期(ぶんせいき)と嘉永期(かえいき)の2度にわたり水道を敷設した。初回(1821年)は、木製の水道管“木樋(もくひ)”で醸造場まで水を引くというもので、総延長約 450メートル。2回目(1850年)は、1,350メートルの水道を敷設した大掛かりなもので、水漏れ防止の技術を持つ船大工や、“黒鍬(くろくわ)”と呼ばれる土木工事を担う人々等、半田の技を生かした一大プロジェクトだった。
ミツカンの基礎を確立

江戸での“寿しブーム”以降、江戸下りの粕酢の出荷量は拡大を続けていた。二代又左衛門は、江戸でのさらなる市場拡大と他社との差別化を図るために、独自のブランド名を付けた高級酢「山吹(やまぶき)」を開発し、江戸への専売品として売り出した。
激動を生きるミツカン天下一円にあまねし
265年間続いた江戸幕府が倒れ、文明開化の世が訪れた。
明治新政府が推進した政策により町にはレンガ造りの建物が数多く建設された。
横浜等の港町には、西洋料理屋が出現し、人々の食生活も西洋風へと大きく変化していった。
この激動の時代に対応するように、ミツカンでも順調だった酢づくりだけではなく、
麦酒や牛乳、銀行等の新規事業に積極的にチャレンジしていった。
酢の市場拡大と新たな挑戦

文明開化以降、人々の食生活も豊かになり、お酢を使った料理が一般家庭の食卓に多くのぼるようになった。それにともない、お酢の需要が年々高まりを見せていた中、ミツカンでは、新たに牛乳事業にも挑戦した。これが、知多酪農の発祥と言われている。また、ミツカンの商標であるも、この時代に誕生した。
は、デザインの微修正がされながら、現在でも使われ続けている。
資本主義経済とミツカン

文明開化による欧化政策で西洋文明の流入はさらに加速し、多くの株式会社が設立され資本主義経済へと日本はつき進んだ。その中でミツカンも「社名:株式会社中埜酢店(なかのすみせ)」として株式会社化し、新規事業などに着手していく。新しい時代の流れが知多半島にもおよび、レンガ造り等の西洋風な建物も建築され、半田の町に近代化の波が押し寄せた。
新しい食生活の提案

消費者にお酢を身近に感じてもらうため、PR用の標語を募集した。その結果「酢のもの万事ミツカンまかせ」が選ばれ、広告など、様々な場面で使われることになった。また、お酢をもっと気軽に使ってもらうため、お酢を使ったおいしい料理の作り方を示冊子などにまとめて配布した。時代の変化に対応した、新しい食生活の提案だった。
第二の創業買う身になって まごころこめて よい品を
1956年(昭和31年)「もはや戦後ではない」の言葉通り、日本は、戦後の復興をとげ高度経済成長期を迎えた。
食を取り巻く環境も大きく変化し、世界中から様々な食材が流入するようになった。
食生活と料理そのものに著しい多様化の波が訪れている中で、ミツカンは、より豊かな食文化への貢献と、
安全・安心な商品の提供を目指し、チャレンジし続けている。
食を取り巻く環境の変化

1950年代後半、新時代の生活必需品として宣伝された「三種の神器」のひとつである、電気冷蔵庫が人々の生活に定着すると、新鮮な野菜や魚などをいつでも口にすることが可能となった。スーパーマーケットが登場し日常の生活に溶け込んでくると、食品の販売方法も大きく変わっていった。ミツカンでは自社商品の品質保証のために、全自動ビン詰めラインを導入した。
企業理念「2つの原点」の誕生

高度成長期の初期にあたる1959年、七代中埜又左エ門が、「買う身になって まごころこめて よい品を」、その後「三身主義」、すなわち、「買う身、働く身、経営者の身」になって考えることが大切であると、提唱し始めた。さらに、1974年、第一次石油ショックが起こった時代において、常に足元を見ることによって、経営の見直しをはかっていきたいという思いから、「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」という言葉を伝えはじめ、その後、「現状否認」という言葉を加え、「脚下照顧に基づく現状否認」という言葉を使うようになった。ここにミツカンの企業理念「2つの原点」が生まれた。
総合食品メーカーへ

1964年(昭和39年)10月1日に東京駅新大阪駅間に東海道新幹線が開業した。10月10日には東京オリンピックが開幕し、世界中に日本の力をアピールする年となった。その年、新たな商品開発の幕開けとなる「ミツカンぽん酢(味つけ)」が誕生した。いよいよ多様化・グローバル化する食文化に対応するために、様々な商品を開発・販売していくこととなる。
世界戦略のスタート

1976年(昭和51年)に海外の市場調査を開始し、1977年(昭和52年) にはハワイに「中埜USA」を設立、1978年(昭和53年)ロサンゼルスに拠点を移し活動を続けた。
そして1981年(昭和56年)、5年をかけた綿密な調査に基づき「アメリカンインダストリー社」を買収し、米国への本格的進出を果たした。
「足るを知り、足らざるを憂い、迷いに迷いに迷って迷わず、ただ専心努力し、天運をつかむのみ」アメリカでの事業はこれだと決定した時に、七代又左エ門の口から出たのがこの言葉であった。
「ミツカン」から「mizkan」へ「やがて、いのちに変わるもの。」
バブル崩壊後未曾有の不況に苦しむ日本は、経済を再生できるかどうかの瀬戸際にあり、先行きが不透明であった。
しかし、どんな環境下においても成長していくために、2004年、創業家の八代目である中埜和英は、新たなグループビジョンを策定した。
そして、ミツカングループの永遠に守るべきもの、「2つの原点」を、
「限りない品質向上による業績向上」だと提唱し、新たな変革と挑戦が始まった。
新コーポレートシンボル・ビジョンスローガンの導入

2004年、それまで「ミツカン」というカタカナ表記を使用していたが、新たなる変革と挑戦への強い意志を込めて「mizkan」(アルファベット)へ変更した。また、“Mitsukan”ではなく“mizkan”とし、“z”という文字を用いて短い綴りにすることで、日本以外の世界中の方々にとっても、覚えやすく、かつ革新的なブランドロゴにした。さらに、ミツカングループが今後お客様に提供していく価値として新しいビジョン・スローガン「やがて、いのちに変わるもの。」を宣言した。このスローガンは、人のいのちの源である食品をつくっているという、誇りと責任をもつという想いから生まれたものである。
グローバル化

中埜和英は、「主要通貨での資産と収益源の分散」が大切であると、1974年に聞いた義父の話をきっかけに考えていた。それは、「先祖が藍商人として、阿波藩の政治とも関係する大きな商いをする中で、天領(江戸幕府の直轄領の俗称 )の琴平にある酒造会社を買収し、商売の難波、政治の江戸の3つに、資産と収益源の分散をはかっていた」という話である。
2000年から資金準備をはじめ、その資金を元にしてファンドを立ち上げた。そこから主要通貨で資産を分散し、収益をあげていくことを具体的に目指すようになった。

欧州において2012年に「SARSON'S(サーソンズ)」を取得、2013年に「Branston(ブランストン)」を取得した。そして、大きくなったファンドを元手に、ついに2014年に北米において、「RAGÚ(ラグー)」「BERTOLLI(ベルトーリ)」の取得を実現させた。
これによりミツカングループ全体の海外売上比率は、約50%を超えるようになった。
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